中古品:
¥317 税込
配送料 ¥240 5月31日-6月1日にお届け
詳細を見る
中古商品: 良い | 詳細
コンディション: 中古商品: 良い
コメント: ■Amazonの中古書籍のコンディションガイドライン「良い」に従って出品しているため、商品によってはページ折れ・汚れ・キズや破れ・焼け・若干の書き込みがある場合がございます。帯・応募券・プロダクトコード・はがき・シール・カード・ポスターなどの封入物は付属致しません。■基本的に配送はゆうメールでのポスト投函となります。配送日及び時間指定はできません。郵便追跡はできませんのでご了承ください。■お客様ご都合のご返品の場合、送料と手数料を差し引いた金額のご返金となります。■土日祝日はお休みを頂いております。
Kindleアプリのロゴ画像

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません

ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。

携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。

KindleアプリをダウンロードするためのQRコード

何か問題が発生しました。後で再度リクエストしてください。

『国家とはなにか』 単行本 – 2005/6/17

4.0 5つ星のうち4.0 41個の評価

大型新人による書き下ろし

いま、「国家とはなにか」と改めて問われても、何を問われているのか分からないほど、私たちは国家というものを身近なものと感じ切ってしまっています。本書は、この身近と思っている国家は、基本的には「暴力に関わる一つの運動態である」という、あまり身近と思いたくない概念規定から論を始めています。
近年、グローバリゼイションと同時にナショナリズムやレイシズムへの関心も高まってきて、その意味では国家にかんする議論は広く行われていますが、本書は先の基本的概念から初めて、昨今の「国民国家論」に至る、現代思想の主要なテーマ系にも十分配慮した、新鋭によるい書き下ろしです。
続きを読む もっと少なく読む

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 以文社 (2005/6/17)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2005/6/17
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 283ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4753102424
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4753102426
  • カスタマーレビュー:
    4.0 5つ星のうち4.0 41個の評価

著者について

著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
萱野 稔人
Brief content visible, double tap to read full content.
Full content visible, double tap to read brief content.

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう

カスタマーレビュー

星5つ中4つ
5つのうち4つ
41グローバルレーティング

この商品をレビュー

他のお客様にも意見を伝えましょう

上位レビュー、対象国: 日本

2018年2月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大変な本を手にしてしまった。実は他の人の本を買うべくアマゾンを検索したのだが、
サーフィン中にこの本を見つけて、ずばり「国家とはなにか」という題名に惹かれて購入した。
哲学者が書いた本なので、難しい用語がたくさん出てくるのかと思いきや、すらすら読める。
一文も短くわかりやすく、かつ大事なことを繰り返してくれているんで、頭によく入ってくる。
海外の研究者や学者によく見られる「なにもここまで」というほどの冗長な繰り返しはなく
大変、心地いい文章だ。
 さて、この本で述べられる「国家論」だが、詳細は本書を読んでいただくとして、私の印象に残った
ところは、ホッブズを用いて国家を説明するくだりだ。ホッブズが展開した人間の自然状態は
「万人の万人に対する戦い」というのはあまりにも有名。人は各々、他人を殺してでも暴力を使ってでも
自ら生き延びよう(自然権)とするので戦いの状態にあるのが、自然状態であるとする。
ではなぜ、その自然状態から国家が生まれるのか?これも歴史の授業で学んだような気がするが、
「そんな危険な状態ですごすのがいやだから、みんなで一斉に、上位の権力に、自らの自然権を
委ねよう」となり、上位の権力とみんなの人間が契約を結ぶことで、上位の権力たる国家が生まれる。という風に
私は理解してきたが、それは違うという。
 確かに深く考えてみれば、この経路では国家が生まれないことがわかる。つまり、自然状態にある人間が
みんなで一斉に自らの自然権を放棄するとうことがあり得るのか?だれかが抜け駆けしたり、直前になって
「やっぱりやめた」なんていうことにならないのか?そういうことは現実世界でもあり、自然状態においても
起こり得る。また、この経路では、予め上位の権力が用意されており、まず国家ありきになっており、
一種の循環論に陥っている。
 では、ホッブズはなんといったか?と著者は説明するか?国家とは「獲得によるコモンウェルス」なのだという
あまり書くとネタバレになるのでやめておくが、獲得というのがキーワードだ。暴力を行使する人間の集団が
暴力的に獲得するのが、国家なのだ。つまり、「殺されたくなかったら俺のいうことを聞け」という暴力集団に対し
それ以外の全員が「言うことを効くよ、あなたに服従します。だから殺さないでくれ」という関係が成立したときが
主権が確立し、国家が誕生することになる。(ネタバレだったらお許しください)。私の理解とは真逆だったので
たいへん驚き、目が覚める思いがした。
 国家が誕生するのは、ある日突然、国家なるものが現れるわけではない。暴力の力の規模や強さにおいて
競争が生まれる。その競争を決するのは、最終的には暴力の規模と強さになるのだが、それを実現させる
ひとつの要素が経済力だ(これは、今も変わらないことにまた驚く)。カネと力を持つものが最後には勝って
国家が現れる。つまり国家とは、暴力と収奪等による経済力を持った個人や共同体が、その他すべてを支配する
状態であり、長期間をかけた歴史的な出来事なのだ。
 また次の指摘も興味深かった。中世から17世紀にかけて国家を形成する活動は盛んであったのだが
結果として支配的な共同体を生み出す原動力となったのは、(貨幣経済)と(火力革命)だというのだ。
王が封土を与える見返りに封建領主(貴族)は馬に乗って戦地へ向かうといのが中世封建制の基盤となる形だが
それでは王は地方の貴族に兵を頼らざるを得ない。ときには満足な兵を調達できない場合もあるだろうし
力をつけた貴族が挑戦してくるかもしれない。ところが貨幣が生まれたことにより、王は兵に対して報給を払うことで
傭兵を調達することができるようになる。加えて銃や大砲が改良されたことで、大きな破壊力をもつ火器を手に入れられた
王が他を圧倒していきとこになる。いうまでもなく、兵を雇うのも、火器を購入するのも、カネが必要なことはいうまでもない。
そのように考えば、王が交易を推奨したことはよく理解できる。つまり勝つためにはカネが必要であり、カネを手に入れるために
交易や海賊行為を推奨したのだ。
 ここまで書いてチャールズ・ティリーの有名なくだりを思い出した。「戦争が国家を作り、国家が戦争を作った」
まさに、そうなのだ。戦争に代表される暴力が国家をつくったのだ。
 国家の起源以外にも、国家に纏わるいろんな議論(例えばナショナリズム)が展開され、後半では、ドルースガタリの
議論を背景とした論説が展開される、私は、ドルースガタリを読んだことがないので、今ひとつピンとこなかったけど、
ドルースガタリに詳しい人には面白く読めるだろう。でもドルースガタリに詳しくない私が、ドルースガタリを読んでみたいと
思うくらいに惹きつけられた。
 「グローバリズムは国家を超克する」とか「情報社会によって国家は消滅する」とかいう、巷で横行するペラペラの議論は、
本書の前では瞬殺されてしまうだろう。この本を読めば国家はなくなるどころか、国家があるからグローバリズムが成り立つのだ
ということが、骨の髄からわかるでしょう。
 私は本書を座右の書にすることに決めました。この本をベースとして関連の古典を読んでいくつもりです。
中野剛志の「富国と強兵」に値するくらいのインパクトある名著です。 
26人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2005年8月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
このように明快な、いや切れ味鋭い理論書の出現は絶えて久しかったのでは
ないか?国家概念が、〈それはひとつの運動である、暴力にかかわる運動で
ある〉との仮説から出発し、ホッブス、スピノザの最も強靭かつ精妙な概念、
すなわち「獲得によるコモンーウェルス」という今では参照されなくなった
概念に証明を当ててよみがえらせ、かつまた逆照射されて自らを鍛えなおし
ていく様は圧巻である。(第3章)それは抜群の国家理論家カール・シュミ
ットのもちいた「友/敵」理論をも不十分とする射程をもち、国家の暴力に
かかわる運動の原動力を、「富の我有化」に帰着させ、「友/敵」理論をも
派生的なものと見なす。
著者はイントロダクションで、「国家を統一的な視座から理論化することを
目指」したと書いている。また、哲学とは概念を創造する学問分野で、あろ
うが、そこまではいかないが、国家についての概念を形成したり、制作した
りという哲学的な試みが本書の特色だと述べてもいる。そして、その意図は
見事に達成されていると思われる。
しかし、★4つなのは、国家の考察としてはこの概念だけではやはり不十分
だと考えられるからである。広大な領域にこの概念で提示される運動を確立
させるためには、膨大な機構が不可欠であろう。何十万、いや場合によって
は何百万の官僚群と常備軍を擁する国家をも「統一的な視座から理論化する」
ためには、更なる概念の形成と制作、いやそれこそ創造が求められる。
21人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2023年6月7日に日本でレビュー済み
第1章 国家の概念規定
1.「物理的暴力行使の独占」――ウェーバーによる国家の定義
2.暴力の正当性と合法性
3.暴力の自己根拠化とヘゲモニー
4.「暴力の歴史の哲学」

第2章 暴力の組織化
1.秩序と支配の保証
2.服従の生産――権力と暴力
3.暴力と権力の規範的区別と機能的区別
4.権力による暴力の組織化と加工
5.手段をこえる暴力?

第3章 富の我有化と暴力
1.富の我有化と暴力の社会的機能
2.税の徴収の根拠
3.設立による国家と獲得による国家
4.所有・治安・安全
5.国家形態の規定要因と「国家なき社会」

第4章 方法的考察
1.国民国家批判の陥穽
2.国家・イデオロギー・主体――国家=フィクション論の誤謬(1)
3.国家と言説――国家=フィクション論の誤謬(2)

第5章 主権の成立
1.暴力をめぐる歴史的問題としての主権
2.近代以前の国家形態
3.暴力の独占と政治的なものの自律化
4.領土と国境
5.「大地のノモス」と世界の地図化
6.国境と領土による国家の脱人格化

第6章 国民国家の形成とナショナリズム
1.国民国家とナショナリズムの概念的区別
2.国家の暴力の「民主化」
3.神学的・経済的なものと国家のヘゲモニー
4.権力関係の脱人格化
5.主権的権力と生‐権力の結びつき
6.ナショナル・アイデンティティの構成

第7章 国家と資本主義
1.捕獲装置と資本主義
2.全体主義的縮減――国家の現在
3.脱領土化する国家
4.公理をめぐる闘争
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2021年6月8日に日本でレビュー済み
国家に直に触れることは出来ない、つまり具体的対象ではないが、ひとは国家の存在を信じている。国家の存在の不可思議性、そもそも国家とは何か?を追求した傑作。

著者の洞察力には脱帽するばかりである。

素晴らしい著者と出会ったことに感謝!!!
2016年3月10日に日本でレビュー済み
『国家とはなにか』という書名にある通り、現在の政治思想研究における国家論につき、その標準的内容の紹介を、平易な語り口でなおかつ完璧に示した良書。大学の2~3年生で、これから政治思想につき本格的な勉強を始めようとする学生に是非一読を勧めたい。

本書の特色はいくつかあるが、まず第一点は国家論における暴力的契機の再評価である。マキアヴェッリ/ホッブズ以来、国家の暴力的基礎の把握は近世国家論の根底をなす観点であるが、マルクス主義政治学の台頭以降の国家の経済的契機への着目や、近年のフーコー的生政治論の強調を通じて、国家の暴力性への関心が若干薄れてきたことも否めない。そうした潮流に抗するかのように、基本に立ち返る構えで国家の暴力性を再度強調した点に、本書の一つの特色がある。加えてこうした暴力の編成を通じた国家の歴史的編成の過程(それは近代主権国家における、暴力の独占においてその頂点に達する)を、その具体的展開を踏まえつつ、しかしながら十分理論的に整理している力量にも敬意を表したい。

だが他方で著者は、実際の国家が単に暴力により実現するのではなく、宗教や倫理、法や臣民の合意といったいわばミクロ政治を駆使することによって、はじめて〈なめらかに〉作動するものであることへの目配りを忘れているわけではない。そうした側面の現存を視野に入れつつ、なおも国家の暴力性(近代国家においてこうした暴力性が、単に我々に君臨・圧迫するものではなく、我々自身がその現出の間接的原因を生み出していることをも含めて)こそが、国家論を理解するための秘鑰であるとする覚悟こそ、この書の核心なのだと考える。

こうした著者の主張の根底には、経済的剰余の上に国家が出現したとする唯物史観的理解を否定し、逆に収奪への意志が暴力としての政治に基づく国家を創出させたとする、ドゥルーズ/ガダリに依拠した卓見がある。21世紀のパイパー資本主義の興隆とともに国家の終焉、換言すれば経済の全面的制覇が語られるようになって久しい。本書の執筆を通じて著者が目論むところとは恐らく、こうした口当たりの良い(国家の暴力性のごとき、人間行為の非理性的側面に目を背けさせるという意味において)経済>政治論的俗説を排し、近代国家が終焉を迎えても国家は揚棄されない、むしろ新しい経済を媒介に国家が新しい様相のもと生き延び、我々を統御していることに知的監視の目を逸らしてはならないという点にあるように思われる。
7人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2006年1月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
いまどき、このような問いをたてて考える人も珍しいのではないかと思う。柄谷行人も書評でそんな風に率直な感想を述べている。

著者は、暴力の行使という概念から国家を規定しようと試み、その考察のスタートはウェーバーによる国家の定義である。それによれば、

<国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行為の独占を(実効的に)要求できる人間共同体である>

とされる。

また、著者はこうも述べている。

<現在あるようなかたちでの国家は、暴力が集団的に行使されるあり方が近代において変化したことによって成立した。つまり、暴力の実践のほうが国家の存在に先立つ。国家の存在は、暴力が行使される特殊なあり方の上に立脚している。>

このような考え方に基づき、暴力が組織化され国家が形成されてきた過程、暴力が「民主化」され国民国家が形成されてきた過程、等について論じていく。このあたりの議論は説得力があっておもしろい。

国家がどのようにあるべきか、という感情的な議論が、タカ・ハト・右・左から錯綜する中で、冷静に国家とはそもそも何なのかということを考えるのは悪くないことだと思う。著者(1970年生まれ)とは比較的歳が近いせいもあるかもしれないけど、クールで分析的な立ち位置に好感が持てた。
30人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート